実際のところ、たとえほかの善をすべてもっていたところで、友人がいなければだれも生きてゆこうと思えないものである。(アリストテレス『ニコマコス倫理学』下、渡辺邦夫訳、光文社古典新訳文庫、p.184)。
人間関係をテーマとした新サイトの最初の特集が「友達いますか?」だと聞いて、執筆依頼を二つ返事で引き受けた。友達の有り難みをしみじみと感じることが最近とくに多いからだ。
友達の有り難みを感じるといっても、親友とか知友とか畏友などと呼ばれるような、深く濃い友人関係のことではない。そんな友達にはめったに出会うことができない。文字どおり有るのが難しいわけで、有り難いのも当然だ。
今回お話しするのは、浅くて薄い友人関係についてである。お互いに深く知っているわけでもなければ、ともに艱難辛苦を乗り越えたわけでもないし、秘密を共有しているわけでもない、ときどき顔を合わせてともに時間を過ごすだけの遊び友達や趣味友である。
私には、ただ楽しみのためだけに顔を出しているグループがいくつかある。おもに読書会のサークルと卓球のチームだ。どちらも生活や仕事のためではなく、遊びのつもりで参加している。浅くて軽い友達とは、そこで出会う人たちのことなのだが、彼ら彼女らの存在がいわく言い難い癒やしを与えてくれるのである。
どんな癒やしか。まず、浅さや薄さそのものが癒やしである。遊び友達との関係は社会的プレッシャーが低い。家庭や職場におけるような「のっぴきならなさ」からある程度解放されて、気楽で無責任な関係のまま付き合うことができる。恋人や家族とはできるかぎり深く理解しあい支えあう人格的関係を構築しなければならないが、遊び友達の場合ははじめからそういうことが要求されないのである(もちろん、深く理解したくなるような相手と出会えたなら、それはそれで幸運なことだ)。
次に、遊びや趣味の集まりの多くが絶妙な頻度で定期的に開催されることもポイントである。たとえば、私が出入りしている読書会は月に1回程度の開催である。卓球チームにいたっては半年に一度のリーグ戦で顔を合わせるだけだ。それでも、集まりに顔を出しているうちに、とくに本音で語り合ったりしなくても、ともに時間を過ごしているだけでなんとなく楽しいという人が見つかる。その人の顔を見るだけで安らぐということさえある。もし毎日顔を突き合わせていたら、そうはいかないかもしれない。
それになにより、遊びや趣味を介した友人関係は、関係の構築と維持のハードルがきわめて低い。同じ時や場所に集まってなにかをしているだけで十分なのである。遊びや趣味はそもそもが楽しみのために行うものだから当然といえば当然なのだが、そこではポジティブな感情で結びつくこと、すなわち友愛の発生がある程度自動的に起こるのである。
もちろん、人間関係にはトラブルがつきものである。遊び友達との関係が悪化することもあるだろうし、顔を見るのも嫌だという相手も出てくるだろうし、場合によっては人間関係のトラブルによってグループそのものが崩壊することもあるだろう(私もすべて経験したことがある)。まあ、そういうこともある。
これまで、浅く薄い友人関係について述べてきた。だがここで、人間、そんな関係ばかりで満足できるのか? という疑問が生じるかもしれない。深く濃い、本当の友達こそが必要ではないか? と。最後にこれについて私見を述べて稿を閉じたい。
問われれば、そりゃそうだ、と答えるしかない。冒頭で述べたとおりだ。たしかに、友情とはなにかとか、友達とはどんな存在かといったことを考えつめていくと、上辺だけの薄っぺらい友達なんていらない、深く濃い本当の友達こそが必要なのだ、という方向に話が進みがちであるように思う。
ただ、私は思うのだ。深く濃い本当の友達がこの上なく価値のある存在であることはもちろんだが、だからといって、浅く薄い友達の存在を軽視することは、まるで高額当選の当たりくじだけを引きたいと主張するようなものではないか、と。それは一見誠実なようで、じつのところ非現実的なほど図々しい主張ではないか。
繰り返すが、深く濃い本当の友達が有り難い存在であることには私も異論はない。ただ、そうした友達と出会えることは運次第といっていいくらい稀なことである。他方で、遊び友達や趣味友は運に任せなくてもできるし、遊びや趣味を介した浅く薄い関係ならではの癒やし効果もある。結局のところ、運に任せないでよい浅く薄い関係と運に任せるしかない深く濃い関係の両方を普通に求めていくしかないのではないだろうか。
Text/吉川浩満
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