日本的な「ムラ社会」はまだ残っていると思いますか?
会社組織や地域などでたまに感じる「ムラ社会」の雰囲気は、なんとなく嫌だけれども、海外進出はすぐには勇気が出ない…。
ムラ的な雰囲気は日本はなぜ強いのか?組織や社会に対するモヤモヤはどうすればいい?などを、精神科医の泉谷閑示先生に聞きました。
プロフィール:泉谷 閑示(いずみや かんじ)
東北大学医学部卒。東京医科歯科大学医学部神経精神医学教室にて研修し、その後財団法人神経研究所附属晴和病院等に勤務。その後渡仏し、パリ・エコールノルマル音楽院に留学。同時にパリ日本人学校教育相談員を務め帰国。現在、精神療法を専門とする泉谷クリニック(渋谷区広尾)院長。現在、診療以外にも、一般向けの啓蒙活動として、泉谷セミナー事務局主催の様々なセミナーや講座を開催している。著書に『「普通がいい」という病』『反教育論』(講談社現代新書)、『「私」を生きるための言葉~日本語と個人主義~』(研究社)、『仕事なんか生きがいにするな』『「うつ」の効用』(幻冬舎新書)など多数。
日本のムラ的なものから感じる、神経症的な雰囲気
ーー泉谷先生はフランス留学のご経験もされています。日本とフランスの組織の雰囲気の違いはありますか?
ムラ的な雰囲気は日本は非常に濃厚にありますが、フランスにはそれがほとんどなくて、私にとってはとてもラクでした。ムラ的なもの、それを私は「神経症的」な雰囲気と呼んでいますが、それは自分がどう思うかよりも人からどう見られるかを重視してしまうことを指します。
フランスから帰国する際には、空港の日本行きの待合室で、すでに日本的な空気を濃密に感じました。きっと「この人は私よりも高そうなスーツケースを持っている」とか自分と比べたり、こちらを値踏みしたりしている視線に満ちていたからでしょう。
フランスは、日本よりもはるかに個人主義が成熟していることを日々肌で感じたわけですが、長らく日本のムラ社会で生きてきた私にとっては、日本を相対化できるとても貴重な経験でした。もちろん、日本のムラ社会の雰囲気をラクに感じるときもありますが、やはりそれを窮屈に感じることの方が多いかもしれません。
ネットの発達により、ムラ社会の雰囲気は強まっている
ーームラ社会のいい面と悪い面を教えてください。
ムラという言葉のルーツは「群れる」です。ムラの悪い面は、個別性が邪魔なので個が犠牲になるところです。つまり、ムラにとって個人はあくまで組織の構成員であってほしいわけで、それぞれの個性はあまり歓迎されない。みなが均質的であることを求められ、個人は取り替え可能な役割的存在として扱われてしまうのです。
このようにムラ社会において個性は原理的に歓迎されないので、ムラ的風潮がまだまだ強い日本は、先進国の中でもうまく独創性を発揮できずに、経済活動ランキングの順位を落としてしまっている。
ユニークなアイディアや新しい発想があっても、ムラ的な組織においては、ともすれば協調性のない人として扱われかねない。個性を発揮できずその処遇に納得が行かない人は、海外に流出してしまうことにもなっているのではないでしょうか。
ーー泉谷先生は、日本のムラ社会は依然として残っていると思いますか?
残っているどころか、むしろ強まっているのではないかと感じています。インターネットの発達により、様々なムラが地理的な距離を超えて無数にできてしまっているのが現代です。以前のムラは、顔を付き合わせて一緒に時間を過ごすことで作られていたもので、その意味で限定的にしか発生しなかった。それが、SNSなどの普及によってその限界が無くなり、際限なくさまざまなムラ社会が発生しているのです。
ムラ社会は、ムラの外を敵と捉える性質があります。外に敵を想定することによって、ムラ内部の結束を固める。これが、イジメやバッシング、ネットの炎上などの現象の根本にあるのです。
言語学的に、日本のムラ社会をひもといてみる
ーーどうして、日本は今でもムラ社会の雰囲気が強いのでしょうか?
以前、それを言語学的な切り口から考えたことがあります。おおまかにお話すると、その言語の主語の有りようが、その社会の個人主義的な成熟度を如実に反映しているのではないかということです。
日本では、「私は〜」とあえて主語をつける言い方は、文法的には可能ではあるものの、日常的なコミュニケーションではむしろ例外的です。文法学者の中には、「日本語に主語は無い。主語のように見えるのは、主題の明示に過ぎない」と言っている人もいるくらいです。
たとえば英語は、今日、主語が必須になっていますが、ずいぶん昔は主語がなかった。それが、4〜500年前頃から徐々に動詞の語尾活用がはじまり、さらに主語というものを立てるようになった。それは、封建的ムラ社会から人々が個に目覚め、それは誰が発言したのか、誰の意見なのかということが重要になった。発言主体を明確にする必要が、言語の文法構造を変えていったのです。
ムラ社会では、基本的に相手も自分と同じ考えであることが前提のコミュニケーションが行われます。ですから、そこに主語を立てる必要性はあまり出てこないでしょう。しかし、ムラ社会から脱して個人が重視されるようになると、主語が生じてくる。ヨーロッパ言語圏での主語の登場は今から400〜500年ほど前なので、極端な捉え方かもしれませんが、日本はそれほど個人主義的成熟が遅れていると見ることもできるでしょう。
代名詞ではなく、相手を役職で呼ぶ日本人
ーー日本では「ですよね?」など同調する言葉も多用されているように感じます。
「ですよね?」といった付加疑問文は、自分が相手と同じ意見であることを確認せずにはいられない私たちのムラ的なメンタリティを如実に表しているものだと思います。何といっても相手と自分が「同質」でなければ安心できないのですから。
それから、日本人同士のコミュニケーションでは、最初に会ったときに相手が格上か格下なのかをまず見分けなければならない。なぜなら、それによって話す内容や話し方が変わってくるからです。
英語圏では、相手が目下であろうが目上であろうが、二人称はYOUを使用します。しかし、日本ではYOUに該当する普遍的二人称がない。YOUは「あなた」と訳すとみんな習ったはずですが、実際場面で目上の人に「あなた」なんて呼び方はできない。例えば、今あなたは私を「泉谷先生」と呼んでいますよね。そのように代名詞ではなく役職などで呼ぶことがほとんどで、これは人称代名詞ではない。
さらにはその上下関係は、敬語の用い方など言葉遣いが変化するにとどまらず、ときとして話す内容まで変わってしまいます。会議では「部長、そうですよね!」と同意する発言をしていても、一歩廊下へ出れば同僚と「まったく、やってらんないよな〜」とブツブツ言ったりする。
私たちはムラの弊害をきちんと認識しておかなければなりません。ぬるま湯的なムラに合わせ「みんな同じだよね」という同質性に浸っている心地良さは、一方では私たち一人一人の個を均質化し、精神の自由を束縛する恐ろしい側面も持っているということに気づいていなければならないのです。