音楽、動画、イラスト、漫画、エッセイ、小説、写真……。ネット空間には今日、あらゆる人の、あらゆる創作物が漂っています。
著名なクリエイターでなくとも、誰もが自由に自分の作品を全世界に向けて発表することができる。一方で、たくさんの人の目に触れるということは、ファンが生まれる可能性と同時にアンチが生まれる可能性も。
自分の作品を多くの人に届けたい。だけど、誹謗中傷されるのは怖い。その葛藤をどう乗り越えていけばいいのか。今回は、歌人でエッセイストの上坂あゆ美さんにお話を伺います。
2017年から短歌を作り始め、2022年に発表した第一歌集『老人ホームで死ぬほどモテたい』で注目を集めた上坂さん。幼少期から自身で描いたイラストを、ブログや掲示板などインターネットに投稿していたのだとか。
そんな上坂さんの創作活動とインターネットの歴史、さらには「SNSをやっていて、息苦しさを感じたことはない」と語るその理由とは?
前編も合わせてご覧ください。
<前編はこちら>
プロフィール:上坂あゆ美(うえさかあゆみ)
歌人、エッセイスト。1991年生まれ、静岡県出身。東京都在住。2022年2月に第一歌集『老人ホームで死ぬほどモテたい』(書肆侃侃房)刊行。他、『無害老人計画』(田畑書店)、『歌集副読本』(ナナロク社)など。
SNSのつぶやきと短歌の共通点は“私性”にある
――前回、上坂さんはSNSのアカウントをご家族や親族にも知られているとおっしゃっていましたが、仕事用とプライベート用でも特にアカウントを使い分けていないのでしょうか。
友達に「裏垢作ろうよ」と誘われて作ったことがあります。でも裏アカウントだから言えるみたいなことがあまりなくて、結果下ネタばっかりのアカウントになり、変なDMすごい来ます(笑)。下ネタも、私が恥ずかしいというよりはフォロワーさんが見て嫌な気持ちになるかもしれないと思ってメインアカウントでは自重している感じです。
仕事とプライベートで特にアカウントを分けていないのは、私の仕事である短歌というものが少し特殊な性質を持つものだからということもあると思います。
――特殊とは?
短歌は“私性の芸術”と言われるように、伝統的に本人の人生や経験を歌ったものが多いジャンルです。例えば石川啄木なら、石川啄木の歌の主体(語り手)は石川啄木であるという見方をされるわけですよね。
ただ、最近は必ずしも作者=歌の主体(語り手)ではない短歌も多くなっています。例えば歌人の笹井裕之さんは長い闘病生活を送られていたこともあり、空想世界やそこからの発想を主に歌にされています。他にも木下達也さんは依頼者から与えられた個人的なお題に短歌で答えたものを「あなたのための短歌集」として上梓され、大きな支持を集めています。
近年では「作者=歌の主体と断定して短歌を読むのはナンセンスだ」という考え方も一般的になっているので、若い歌人の中ではむしろ私のように私小説的なスタイルの方がマイノリティかもしれない。
――私も短歌は自分の気持ちを詠むものというイメージがあったので驚きです。
どちらかといえば、映画や小説に近い部分がありますよね。それはそれで素晴らしい作品が世の中にはたくさん存在しているんですが、私がもともと短歌に惹かれたのは多分、私性にすごく興味があるからです。もはや自分のことを、自己開示欲求の化け物だと思っています(笑)。だから仕事とプライベートの境目が限りなく曖昧で、アカウントを使い分ける必要もないのかなと思います。
――元々、短歌とSNSのつぶやきってすごく似ていると思うんですが、歌人である上坂さんが思う両者の共通点や違いはどこにあると思われますか?
色んな方がおっしゃっていますが、原則すごく似ていると思います。短歌の源流である百人一首も、見方によってはほぼTwitterですよね。「好きな人に会えなくて辛い」みたいな(笑)。
ただ、短歌においては韻律と呼ばれる音のリズム感がとても重要。他にも「スペースを空けるか、空けないか」「漢字にするか、ひらがなにするか」など、短歌は作品なので感覚を研ぎ澄ませる必要があります。その点、Twitterのつぶやきではそこまで厳密に誤字を気にすることはなく、むしろ誤字が味になって多くの人に受けることもあるじゃないですか。そういうライブペインティングに近い要素がSNSのつぶやきにはあって、発信者側からすればそこが短歌との違いかなと思います。
病まない方が難しい社会で、どうすれば健全に病めるか
――上坂さんはご自身のことを多く歌っているとのことですが、今の社会で起きている出来事や世の中の風潮などを歌にすることはありますか?
例えば、ウクライナ戦争や新型コロナウイルスなど、今の社会で起きていることを題材に詠んだ短歌を“社会詠”や“時事詠”と言いますが、私は明確な時事詠はあまり詠んだことはありません。ただ、ウクライナ戦争が起きた時に感じた衝撃や、投票率が低いことに対しての悲しみを全く違う言葉で短歌にして間接的に表現することはありますね。
――SNSはそういう、いわゆる“時事ネタ”を仕入れる場でもあると思うんですが、一方で辛いニュースやそれに対してSNSで巻き起こっている議論を目の当たりにした時にストレスを感じることはないですか?
比較的、ストレスは感じづらい方ですね。例えば戦争が起きて多くの方が命を落としていることも、セクシャリティやジェンダーで差別を受けて傷ついている人がいることも、もちろん悲しいと思います。ただ、現状当事者ではない私が凹んでいる場合じゃないなってどこかで思っている。そういうことが現実に起きているとき、じゃあ「自分はどうすべきなのか」ということに割とすぐに気持ちが切り替わるタイプなのかなと。同時に、それは私の共感性が低いという問題でもあります。誰かが強烈に批判されているのを見たり、過激な思想に触れて辛くなる人は、すごく共感性が高くて優しい人だと思う。私自身はそういう人に憧れてもいますね。
――共感性が高いのもありますし、ごく一部の極端な意見があたかも世論のように思えて苦しくなってしまうのかもしれませんね。
以前働いていた広告業界で、フィルターバブルという社会問題を知りました。インターネットではその人が興味を持っている情報がアルゴリズムで表示されやすくなるじゃないですか。そうすると必然的に自分にとって都合の良い情報しか見えなくなり、例えば保守派と革新派みたいなものの対立がより深まってしまうんですって。
先ほどの話でいうと、それとは逆のことが起きていますよね。それって多分、一部の過激な意見を見てダメージを食らってるうちに、嫌だと思いながら見てしまって、その人のタイムラインではそういう意見がアルゴリズムで表示されやすくなっているんだと思うんです。だから、私は「嫌だな」と思う意見を目にしたらできるだけ高速で通り過ぎるようにしています(笑)。自分とは違う価値観を知りたいと思ってわざわざ見に行くときもありますけど、やっぱりそれは心に余裕がある時にしかやらない方がいいですよね。
――極端な意見や過激な内容ほど、リツイートやいいねが伸びやすいのもありますよね。
何かを断言するのって、誰かの心を踏む勇気がないとできないことだと思うんです……っていう断言がブーメランになりますけど(笑)。もちろん、断言した内容が全て悪とは限りませんが、当然いいねの数が多いからといって正しいとも限らない。でも一方で、自分が嫌だなと思う意見を実際に大多数の人が思っているという可能性も残念ながらありますよね。そういう場合は、自己満でもいいから何か社会を変えるために行動してみるといいんじゃないかな。悲しいニュースばかりの世界で、私が比較的メンタルを保てているのは、自分の作品や発信を通して少しでも社会を変えていけるのではないかという可能性を諦めていないからだと思って。
綺麗事のようですけど、例えば100円でもいいから信頼できる団体に寄付してみるとか、SNSで「社会を変えるためにみんな投票に行こうよ」って言ってみるとか。無駄かもしれないけど、やるかやらないかでは心の持ちようがきっと変わるので、顔の見えない誰かのためじゃなく自分の心のために行動する。それって、健全な病み方だと思います。こんな社会では病むなという方が難しいから、いかに健全に病むかが大事だと思っています。
無駄に傷つかないために人生の目的と優先順位を定める
――ちなみに、上坂さんはエゴサ(※自分に対する世間の評価を自分で調べること)ってされますか?
します!なんなら1日に何度も検索しますし、Twitter、Instagram、note、匿名掲示板までチェックしています(笑)。もちろん誰かが褒めてくれてたら嬉しいなという気持ちもありますけど、匿名掲示板まで見に行くのはどちらかと言えば“適切なアンチ”を探すため。実際に言われたことはないですけど、例えば「あいつブスだよね」「調子乗ってるよね」って書かれていたとしたら、それは根拠に乏しく、その人の主観なので多分スルーします。だけど、私の短歌や文章を「これこれこういう理由で迫力が足りないから嫌い」という風に批評してくれる方は“適切なアンチ”だと思っていて、そういう批評は積極的に知りたいですね。あと私の場合は作品=人生という側面が強いので、私の人間性に対する批評もすごくありがたい。もっとかっこいい人間になりたいので。もちろん褒められるのも嬉しいけど、より良くなるためのきっかけを与えてくれるコメントを見つけると自分はやる気が出ます。
――そういうのと向き合うのが怖いという気持ちや、自分に対する批判を見て傷つくことはあまりないですか?
あまりないですね。というのも、私の人生の目的って「かっこよく生きて、真っ当に死ぬこと」なんですよ。第一歌集の「老人ホームで死ぬほどモテたい」というタイトルもその言い換えというイメージ。どうしたら魂の格を上げられるか、どうすればよりかっこいい人間になれるかにすごく興味がある。そのために必要な意見だったら、厳しい言葉でもありがたいと思います。
私はそういうタイプの変態ですけど、多くの人はそうじゃない。例えば、ただ楽しく生きていきたいと思っている人が急に人間性を否定されたら傷つくのは当たり前だし、必要ないですよね。私の場合は先ほどもお話ししたように、たとえ容姿を批判されたとしても、「かっこよく生きて、真っ当に死ぬこと」に容姿はあまり関与していないので真正面から受け取る必要もないし、傷つく必要もないと思うことができます。まあ容姿も褒められたら普通に嬉しいですけど(笑)。
自分はどんな人生を歩みたくて、そのためには何が必要なのか。目的を絞って優先順位を定めたら、傷つかずに済むことは増えるのかもしれません。