相互フォロワーになった時、彼女の背骨がものすごく歪なことに気づくのだ/towa

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 友人は多い方ですか。そう聞かれて、いいえあまり、と答えた。多いか多くないか、の二択なら、多くないと答える方が正しいに決まっている。ほんの一瞬の背伸びで、今まであちら側に生きてきた多くの他人を突然こちら側に招き入れるのは、何だか人間として無作法だと思うからだ。だから、こう付け足した。「でも、かけがえのない友達なら」それは相対的な数ではなく、絶対的な数だから言い切ることができた。

 代替可能な人間と、代替不可能な人間。私の中にそんなふうに他者を仕分ける指標が息づいている、その無邪気な残酷さを飼いならすことはできないが、それでもこの、かけがえのないという言葉が好きだ。それはこの言葉が使い手の価値観に依存しているからで、そのものの本当の価値は他者によってしか見出されないと教えてくれるからである。私たちは普段歯車となって互いに回転し合いながら、社会という大きなカラクリを機能させているけれど、ああこの人は本当はこんなにも歪で、一部品にも、あるいはパズルのピースみたいなものにもなり得ないんだと知る瞬間、その人は自分にとって「かけがえのない存在」になる。

 私たちはたぶん、そのためにSNSを必要としている。もちろん色々な理由があると思うけど、そういう部分が結構ある。

 私は去年、高二というそこそこ珍しい段階で今の学校に転校した。優しいクラスメイトたちのおかげで問題なく学校生活を送ることができたのだが、いちばんはじめに仲良くなったのはクラスメイトのAちゃんだった。転校初日に話しかけてくれたフレンドリーな彼女とは共通の趣味がきっかけですぐ仲良くなり、毎日一緒に登下校するようになった。彼女と私は毎日、競うように推しのエピソードを披露して笑い合った。それから同時に、彼女は私にはない軽やかさがあり、多くの人から愛されてもいた。「トワちゃんは私が知らない世界を知っているから羨ましい」そんなふうに言われて羨ましい人に羨ましいと言える彼女の素直さが羨ましくて目が眩んだことがあった。

 けれど同時に、本当は、私はそんなふうに天日干しされた真っ白なTシャツのような人間ではなかった。そんな人間に憧れながらも、私の少しあまりあり過ぎるような思考は私という人間をだいぶ濁らせていたし、良くないと思いながらもたくさんのヘイトを抱え込んでいたし、私の不器用さでうっかり人でも殺してしまうんじゃないだろうかと恐れていた。「生き物」が向いてないから膀胱炎と痔を併発したこともあるし。あと、人知れず推しのアイドルのBLも書いていた。

 Aちゃんも同じように、彼女という人の中にたくさんの汚点を抱え込んでいるだろうか?不意に浮かび上がる希死念慮に自分ごと乗っ取られるような感覚になったり、かと思えば理由なく希望が湧き上がったりして、それまでの病んでいた自分が急に馬鹿馬鹿しく思えたり、これまでの人生でつけられた無数の傷が傷んだり、回復したり。そういう人間なんだろうか。私は他人の矛盾を愛したいと思う。矛盾をたくさん抱えている人のことを。それは決して彼女の声を伴って聞くことはできないはずだった。私たちは「声」がひどく暴力的であることを知っていた。声に乗せられた矛盾は必ず受け止めなければならないのに、他人にそんな爆弾のようなものを投げつけるわけにはいかない。

 「Twitterやってる?」そう聞いたのが私だったのか、Aちゃんだったのかは覚えていない。どちらにせよ、互いが同時に今がそのタイミングだと考えていたから、どっちが先か?はさして重要ではなかった。私たちは、Twitterの鍵垢のことを限られた人間のみが入ることを許されるVIPルームみたいなものだと思い込んでいた。

 彼女と相互フォローになってから、今まで私が見ていた彼女は、彼女を構成するほんの一部分に過ぎなかったことを知った。彼女も同じ気持ちだっただろう。私たちは一週間のうち5日も顔を突き合わせ、推しや近況やとるに足らないことなどを飽きることもなく語り合ったが、空高く登った太陽の日差しに照らされながら覗くその表情と、辺りが暗闇に包まれる頃、逃げ場を求めるように開いたTwitterで見るその表情が全くの別物であることを知っていた。そういうことはこれまでにも何回かあった。鍵垢が相互フォローになって初めて、その人の背骨が本当はものすごく歪なのだということに気づく瞬間。鋭く尖っているせいでうかつに触れたら怪我をしてしまうこともあるし、逆に、ガラスのように脆いせいで触れられないこともある。けれどそれは同時にひどく面白くて、決して嫌いになることはなかった。みんな違ってみんないい、って言葉が有名だけど本当は、みんないいから、みんな違ってみえるんじゃないだろうか。彼らの背骨をこじ開けたとき、私はその人が私にとってただの友人から「かけがえのない」友人に変わったことに気づくのだ。

 私たちはみんな今日まで、無数の呪いと無数の祝福を与えられて生きてきて、その結果どんなふうに歪んだり曲がりくねったりしたのかを、画面上を介してはじめて知らされる。そうして私は初めて、私自身もまた歯車の一部品ではないのだと教えてもらえる。自分を回転させる歯車がいなくなったら、自分もただの凸凹なオブジェになってしまうみたいに。

 けれど、人類の長い長い歴史のうちで、インターネットが出現したのはほんの最近なのに、どうしてこんな形でしか誰かを特別だと思えなくなってしまったのかな。私たちは毎晩、画面越しに互いの背骨の形を愛おしみ、同情し、共感しながらも、朝が来れば引き出しの奥に仕舞い込んで何も知らなかった顔で挨拶をし、とるに足らない会話で笑い合って、別れる。互いが全て知っているのを知りながらも大抵の場合知らないふりをするのは傷つけたくないからだ。独り言では許されても、対話では許されない。会話はキャッチボールだけど、たくさんのトゲがついたボールをぶつけるわけにはいかない。けれどもいつか、あなたの投げるトゲが刺さって血が流れてもいいから、その代わり私のトゲも許してもらうのが条件で、向かい合って話そう。タイムラインにぶら下がった独り言は宛名のないメッセージだってことも私知ってるから、いつかあなたの背骨のことこんなに愛しいんだよって伝えてあげたい。

Text/towa

TERMINALの特集vol.2は「SNSは好きですか?」をお届けします。

簡単につながれる「SNS」。たくさんのツールの登場で、多様な距離感の人間関係が築けるようになりました。

・SNSの友達はリアルの友達と違う?
・SNSが与える影響は?
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など、SNSにまつわる様々な悩み・疑問について識者のお話を聞きながら探っていきます。